最近、生活拠点を日本から外に写して、まあ別段代わり映えはしないのだけれど、ノシロ語に割ける時間は格段に減ったが、「言語と交流」みたいな話題にはリアリティをもって接することができるようになった気がする。
ノシロ語は、アジアからヨーロッパへのプレゼントであるという。ヨーロッパ生まれのエスペラントは、どうあがいてもヨーロッパの言語である。アジア言語と英語をうまく融合して、世界中のどんな言語を母語とする人々にも学びやすく使いやすい言語として、ノシロ語は提案された。まだその理想には及ばないが、ノシロ語にはまだまだ未来の可能性がある。だからこそ見守りたいと思う。
さて、ノシロ語について、アジアとヨーロッパひいては世界の架け橋となってほしいのはさることながら、それ以前にアジアの架け橋になってほしいなと思うようになった。アジア諸国(アジアといっても東西広いけれど)の間の人的交流は盛んになりつつある。とくに、若い世代が、国や民族を越えて互いにやりとりできる機会が増えているように思う。ま、増えているかどうかはさておき、たぶん実際に国を越えた出会いやコミュニケーションは実際に起こっていると思う。
それはそれでたいへん素晴らしいことだと思うのだけれど、そんな彼らの共通語がどうしても英語っていうのが、ちょっとなんというか喉に小骨のひっかかるような思いがあって、気になる。英語の、国際語あるいは世界共通語(あるいはアジア共通語)としての地位が確固たるものであることを示すもので、ああ、まあそういうもんなのだなという諦めもある。実際に英語でコミュニケーションが起こっているならば、それでいいじゃないかとも思える。
場面を問わずアメリカ人風の英語を至上とする風潮は戯言と思う。非英語圏の人々の間で確かに使われている英語も、拡大している。とはいえ、そのようなコミュニケーションの場に参加できるのは、やっぱり英語学習に恵まれた一握りの人々にすぎない。もしももっと学びやすくて、平等な言語があれば…と実際に思う場面と出会う機会が増えた。そう、ノシロ語がやっぱり必要なのだ。
国や民族を越えて、人々がコミュニケーションを取れるのは大いに結構である。それが英語であっても構わない。しかし、どこかこの営みの中に、英語至上みたいな気持ちが見え隠れしてしまうのは、なんともむず痒い。
ノシロ語でアジアがつながる、というところから始めるのもいいのかもなと思い至る。もうちょっと様子を見てみよう